天音光人の文学的日常

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カテゴリ:文学一般( 56 )

わたしは内田康夫の浅見光彦シリーズの愛読者で、その大半(百冊ぐらい)は読んでいるのですが、そこにはだいたい共通する基本構造があることに気づきました。

・プロローグ
・事件発生
・マドンナが巻き込まれる
・浅見光彦の介入
・警察による誤った捜査
・浅見と警察との対立
・浅見が刑事局長の弟であることが発覚
・警察の協力
・真相解明
・事件解決(犯人逮捕/自害)
・マドンナとの別れ
・エピローグ

だいたい以上のような流れになっているようです。


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by amanemitsuhito | 2018-10-03 13:51 | 文学一般 | Comments(0)
今日のニュースで、村上春樹が本年度のノーベル文学賞の代替賞を辞退したという報道がありました。この文学賞は、ノーベル文学賞が選考委員の不祥事によって本年度の授賞が見送られたことを受けて、スウェーデンの作家や記者らが集まる団体「ニュー/アカデミー」が創設したものらしいですが、村上春樹はその最終候補者4名の中に入っていたのだそうです。

私の考えでは、村上春樹はそもそもノーベル文学賞自体をあまり授賞したくなかったのではないかと思います。もう十分にお金も名誉も読者も得ているわけですし、ここでノーベル文学賞なんか受賞したら、回りが大騒ぎしてうるさいだけだし、窮屈で不自由になるだけですから。村上春樹自身、そんなことを『職業としての小説家』などで書いていたと思います。

ノーベル文学賞は候補者に挙がっているかどうかはかなりあとになるまで発表されませんからどうしようもありませんが、今回の文学賞は事前に公表されたので、辞退の意志を示したのでしょう。これでノーベル文学賞自体にノミネートされる可能性もなくなったのではないかと私はみています。

個人的には、ノーベル文学賞本体はどうかわかりませんが、今回の代替賞は受賞する可能性がかなり高かったと思うのですが、まあ辞退した方がすっきりしていて、いいのではないでしょうか。

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by amanemitsuhito | 2018-09-16 12:36 | 文学一般 | Comments(0)

エッセイと虚構について

村上春樹のエッセイ集『村上ラヂオ』(新潮文庫)を読んでいます。村上春樹は小説だけでなく、エッセイも面白いです。もちろん、物事に対する考え方や観察の仕方、捉え方などが非常に独創的で興味深いというのもありますが、語られているエピソード自体も面白いものが多いのです。

そこでふと思ったのですが、エッセイに書かれているエピソードは実際に体験した出来事だけではなく、虚構もかなり混じっているのかもしれません。たとえば『村上ラヂオ』には、おしゃれなイタリア料理店で若いカップルの男の方が大きな音を立ててパスタを食べる話や、田舎のうなぎ屋で二階の座敷の通されて一時間待たされ、気になって下に降りてみると、怪しげな老婆がウナギをさばいていたという話などが出てきます。

これらのエピソードはもちろん実際にあり得る話ですが、めったに体験することはないでしょう。まったくの虚構でなくても、かなり誇張があったり、人づてに聞いた話であったりしたのかもしれませんね。


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by amanemitsuhito | 2018-09-10 16:16 | 文学一般 | Comments(0)
村上春樹の『村上朝日堂の逆襲』(新潮文庫)の「バビロン再訪」という章を読んでいて、面白い記述に気がつきました。村上春樹は3作目となる『羊をめぐる冒険』を書くまではジャズ喫茶を経営していて、その前の2作、つまり『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は夜遅くに仕事を終えたあとで、自宅の台所のテーブルに座って毎日一、二時間ずつ執筆していったのだそうですが、そのためにその作品は「小説というよりは小説的フラグメント(断片)の寄せあつめみたいな感じ」になってしまったというのです。つまり、そうした斬新な作品構造は、作者が意図して作り出したのではなく、「生活環境のなせるわざ」であり、「都会でサーバイブする人間の時間性からしぼりだされた」ものだったのです。

しかし、『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』は、まさにそんな断片を組み合わせたモザイクのような構造がポストモダン的だと高く評価されていました。私もじつは、そういう構造が面白いと思いますし、とくに『風の歌を聴け』は今でも好きな作品の一つです。

ただ、村上春樹自身は「そういう書き方やそういう作品に今ひとつ納得できなかった」ようで、最初の2作の英訳が長いこと海外で出版されなかったのも、その理由によるものと思われます。(ただし、講談社英語文庫で日本国内では英訳が出ていました)

文学作品に対する作者自身の評価と読者の評価とは、往々にして異なることがあるものですね。


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by amanemitsuhito | 2018-09-08 15:39 | 文学一般 | Comments(0)
村上春樹の『アフターダーク』を読んでいて、梶井基次郎の『檸檬』とよく似た箇所があることに気づきました。

それは終わりの方の a.m.5:10 のところで、登場人物の高橋がセブンイレブンに入ると、チーズの棚に置かれた誰かの携帯電話が突然鳴り出します。高橋がその携帯電話を取ると、「逃げ切れない」という不思議なメッセージが聞こえ、電話はぷつんと切れます。高橋は結局、携帯電話をもとの棚に戻して店を出るのですが、このときに店内に流れていたのが、スガシカオの「バクダン・ジュース」という曲なのです。

これはまさに梶井基次郎の『檸檬』の結末部分と一致しているのではないでしょうか。『檸檬』では、主人公で語り手の「私」は丸善の本の棚に檸檬を置いて出てきて、爆弾を仕掛けて丸善を爆破する想像をします。

ここで檸檬はバクダンに見立てられているわけで、『アフターダーク』の携帯電話もそれに対応しているのではないかという気がします。



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by amanemitsuhito | 2018-09-01 15:11 | 文学一般 | Comments(0)

京都を舞台にしたラノベ

先日、望月麻衣の『京都寺町三条のホームズ』第1巻(双葉文庫)を読みました。京都寺町三条の骨董店の若旦那でイケメンの京大院生(ホームズ)と、そこでバイトをすることになった女子高生と(ワトソン役?)との恋愛関係を軸とした日常ミステリもので、小説としての評価は微妙なところですが、アニメ化もされて結構人気のある作品のようです。

その人気の理由の一つはやはり、舞台を京都にしていることでしょう。これが東京や大阪やその他の地方都市だったら、それほど人気は出なかっただろうと思います。そう考えたら、京都を舞台にしたラノベが最近わりと多いということに気がつきました。思いつくだけでも、岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿』、七月隆文『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』、あとは森見登美彦や万城目学の小説なんかがあります。京都という町はたしかにそれだけで多くの魅力を持っていますね。

ちなみに、『京都寺町三条のホームズ』のホームズこと家頭清貴は京都府立大を出たあとで京大大学院に進学し、「文献文化学」を専攻しているという設定になっていますが、あまり聞き慣れない名称なので気になって調べてみたら、京大の文学部や文学研究科で使われている専攻名で、いわゆる国文とか英文とかいった従来の文学科でやっているもののようですが、一般的にはあまり使われていないようです。



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by amanemitsuhito | 2018-08-29 18:29 | 文学一般 | Comments(0)
今朝(2018年8月11日)の朝日新聞朝刊に作詞家の松本隆のインタビュー記事が載っていたので、読んでみたのですが、一つ面白いと思ったことがあります。

それは、インタビュアーが松田聖子の「風立ちぬ」の歌詞に出てくる「すみれ ひまわり フリージア」という花の季節が違う(秋ではない)ということについて尋ねたところ、松本隆は「歌詞に無意味なワンフレーズを入れたらどうなるか、ちょっとやってみたかっただけ」と答えているのです。つまり、歌詞の中で唐突に春と夏の三つの花が出てくるのは深い意味があってのことではないというんですね。

一方、聴く人はその意味を一生懸命に考えて、それぞれ勝手に解釈するのです。小説なんかの場合でも、案外それと同じで、読者は何か深い意味がありそうだと思っても、作者の方はとくに深い意味を持たせていないのかもしれません。

村上春樹の作品なんか、そんなのが多そうな気がします。

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by amanemitsuhito | 2018-08-11 19:53 | 文学一般 | Comments(0)
長らくブログを休んでいましたが、そろそろ復活して、不定期的にでも更新したいと思います。実は最近、ビートルズにはまっています。そこで「イエスタデイ」という名曲を聴いていたのですが、歌詞の意味が今ひとつよくわからなくなりました。

全体の意味としては、恋人が急にいなくなってしまい、恋人と一緒にいて幸せだった過去(昨日)と、恋人がいなくなってしまった惨めな現在の状況とを対比させて、過去(昨日)の幸福を懐かしむ歌ということになるでしょう。図で表すと以下のようになります。

「幸福だった昨日」←「惨めな現在」

そこで戸惑ってしまったのは、第2節最後の "Oh, yesterday came suddenly." というところです。この yesterday はおそらく「昨日の出来事」というような意味で、恋人が突然去ってしまったという不幸な出来事のことを指しているのでしょう。しかし、それ以外の箇所の yesterday はすべて、恋人がまだいた幸福だった「昨日」というような意味で使われています。つまりこうなります。

①恋人がいて幸福だった「昨日」
②恋人が去るという不幸な出来事が起こった「昨日」

そう考えると、yesterday という単語が同じ歌詞の中で二つの別な意味で使われていることになり、それがどうしても引っかかるのです。でも、そう解釈するしかないのでしょうね。

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by amanemitsuhito | 2018-08-10 09:52 | 文学一般 | Comments(0)
ミステリ作家の内田康夫が逝去というニュースが流れていました。数年前に脳梗塞で倒れてから休筆していましたが、容態が悪かったらしいです。

私は内田康夫のミステリのファンで、もちろん浅見光彦シリーズは全部ではないにしても百冊ぐらいは読んでいますし、実は浅見光彦倶楽部に一時期入会していたこともあります。その他にも岡部警部や信濃のコロンボ、橋本千晶やパソコン探偵ゼニガタなんかも好きでした。

内田康夫の作品はトリックなどミステリ的な要素はそれほどではありませんが、キャラクターが魅力的なのと、何よりも旅情ミステリといわれるように、全国各地の観光名所が舞台となっていて、旅情を感じられるのが一番の特徴でしょう。

浅見光彦の新作がもうこれ以上出てこないのは残念ですが、しかたないですね。




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by amanemitsuhito | 2018-03-19 07:50 | 文学一般 | Comments(0)

早春賦と石坂洋次郎

いつのまにか立春になりました。立春といえば、「春は名のみの風の寒さや」で始まる『早春賦』の歌を口ずさみたくなります。そしてこの歌を口ずさむと、中学生ぐらいの時に読んだ石坂洋次郎の『霧の中の少女』という短編小説を思い出します。

この小説の主人公は北国の高校生の少女で、東京の大学へ行っている姉が帰省しているときに、そのボーイフレンドが遊びに来て、封建的な田舎に住む家族でちょっとした騒ぎになります。そして少女は姉とそのボーイフレンドと温泉へ行くのですが、霧の夜に姉たちが『早春賦』を歌っているのを聴くのです。

そのあとで、少女と姉とボーイフレンドは霧で周りが見えず人もいないので、一緒に露天の温泉に入ります。結局、姉とボーイフレンドは結婚することになるのですが、この霧の中の温泉での少女と『早春賦』が妙に幻想的で美しい印象として心に残っているのです。

今は石坂洋次郎はあまり読まれないようで、人気作の『青い山脈』や『若い人』も含めて品切れがほとんどのようですが、せめてKindleでぐらい出してほしいものです。




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by amanemitsuhito | 2018-02-04 07:03 | 文学一般 | Comments(0)

天音光人の文学的日常


by 天音光人